クリスティアーノ(クリスチアーノ、C)・ロナウド
ポルトガル代表の新世代スター、クリスティアーノ(クリスチアーノ、C)・ロナウドを紹介しています。

(ドイツW杯予選スロバキア戦で直接FKを決めたクリスティアーノ・ロナウド)
クリスティアーノ(クリスチアーノ、C)・ロナウド プロフィール
ポルトガル代表のニュースター、クリスティアーノ・ロナウドの簡単なプロフィールです。
| 本名 |
クリスティアーノ・ロナウド・ドス・サントス・アベイロ
(Cristiano Ronaldo dos Santos Aveiro) |
| 生年月日 |
1985年2月5日生まれ |
| 出生地 |
マデイラ島、サント・アントニオ |
| 身長 |
184cm |
| 体重 |
75kg |
| 代表デビュー |
2003年8月20日カザフスタン戦 |
| 代表初ゴール |
2004年6月12日ギリシャ戦 |
クリスティアーノ(クリスチアーノ、C)・ロナウド クラブキャリア
クリスティアーノ・ロナウドのポルトガル時代からのプロ選手としてのキャリアをまとめています。
リンクが張ってあるシーズンは、全成績を確認できます。
リンク先ページでは、クリスティアーノ・ロナウドの動画もたくさん用意しています。
シーズン |
チーム |
試合数 |
得点数 |
| 2002-03 |
スポルティング・リスボン |
25 |
3 |
| 2003-04 |
マンチェスター・ユナイテッド |
29 |
4 |
| 2004-05 |
マンチェスター・ユナイテッド |
33 |
5 |
| 2005-06 |
マンチェスター・ユナイテッド |
33 |
9 |
| 2006-07 |
マンチェスター・ユナイテッド |
|
|
クリスティアーノ(クリスチアーノ、C)・ロナウド これまでの履歴
[クリスティアーノ・ロナウドの誕生〜スポルティング・リスボン入団]
1985年2月5日、ポルトガルの南西、大西洋に浮かぶマデイラ島の首都フンシャル近郊の町サント・アントニオで一人の男の子が誕生た。
その男の子は、当時のアメリカ大統領ロナルド・レーガンにちなんで、「ロナウド(Ronaldo)」と名づけられた。
クリスティアーノ・ロナウドの誕生である。
ロナウドは、幼い頃からサッカーボールと慣れ親しむサッカー少年へと成長していく。
自宅近くの空き地をホームスタジアムとして使用し、でこぼこのピッチの上でそのテクニックを磨く日々が続いた。
本格的なキャリアのスタートは、地元の小さなサッカークラブ、アンドリーニャへの入団から始まる。
ロナウドの父はアンドリーニャでホペイロ(用具係)を務めており、その縁もあってこのクラブで本格的にサッカーに打ち込み始めることとなった。
ロナウドの才能は当時からすでに際立っており、間もなくマデイラ島の2大クラブ、マリティモとナシオナルが彼の獲得に動き出す。
結局ナシオナルに入団することとなり、ここから本格的にプロのサッカー選手を目指し始めることとなる。
1996年、11歳になったクリスティアーノ・ロナウドは、スポルティング・リスボンの入団テストを受けていた。
スポルティングのスカウトはロナウドの才能に魅了され、すぐに獲得に乗り出した。
ナシオナルは当時、スポルティングからDFを譲り受けるという借りがあったため、話し合いはスムーズに進み、ルイス・フィーゴを輩出したスポルティングの育成部門にロナウドは預けられることとなった。
実は、スポルティングのライバル・ベンフィカもロナウド獲得に乗り出していたが、スポルティングはベンフィカには絶対渡さぬと、わざわざマデイラ島まで出向き、移籍交渉をまとめ上げたと言われている。
[スーペルリーガデビュー〜マンチェスター・ユナイテッド移籍]
着実に成長していったロナウドは、 2002-03シーズン、17歳となっていた。
ユースチームでプレーしていたロナウドは、スポルティングのトップチームを率いていたルーマニア人監督ラスロ・ベレーニの目に留まることとなる。
ベレーニは、ウーゴ・ヴィアナやリカルド・クアレスマをデビューさせるなど、若手を積極起用することで有名だった。
ロナウドに注目したベレーニは、ロナウドをトップチームに引き上げ、その後ユースに戻すことはなかった。
そして、第6節のモレイレンセ戦。
ベレーニはロナウドをスタメンで起用。すると、スーペルリーガデビューを果たしたロナウドは、たちまち2ゴールを挙げ、クラブの最年少得点記録を更新。その後もコンスタントに試合に出場し続けた。
2003年8月6日。
彼の運命は大きく動き出す。
スポルティングのホームスタジアム、ジョゼ・アルバラーデのリニューアルのこけら落としとして、マンチェスター・ユナイテッドを招いてのフレンドリーマッチが行われ、彼はビッグクラブの目に留まることとなった。
そのプレーに、マンチェスター・ユナイテッドのアレックス・ファーガソン監督は一目惚れした。
マンチェスター・ユナイテッドの選手が、彼をスタジアムから出さずに今すぐ契約するべきだ、と発言したのは有名なエピソードとなっている。
その後、それは現実のものとなり、1750万ユーロ(約24億円)で、世界的ビッグクラブの一つ、マンチェスター・ユナイテッドへ移籍することとなった。
背番号は、栄光の7番。
イングランド屈指の名門のエースとして招かれたという意味だ。
2003年8月16日のボルトン戦でプレミアデビュー。
途中出場したロナウドは、そのテクニックを存分に披露し、オールドトラフォードのファンを魅了した。
(→クリスティアーノ・ロナウドのプレミアシップデビュー時の動画はこちら)
[ポルトガル代表デビュー〜波乱の年]
同年には、フル代表でもデビュー。
2003年8月20日に行われたカザフスタン戦で、ルイ・コスタに代わって後半から出場した。
その後も常に代表に呼ばれ続け、2004年、地元ポルトガルで行われた欧州選手権を迎える。
ホスト国ポルトガルは、開幕戦でギリシャにまさかの敗退。
しかし、この試合に途中出場したロナウドは、この試合の後半ロスタイムに代表初ゴールを決めた。
2戦目のロシア戦には勝ったものの、グループリーグ突破には隣国スペインに勝たなければならない状況となっていた。
そこでルイス・フェリペ・スコラーリ監督は、シモンに代わってロナウドをスタメンに抜擢する。
ロナウドをスタメンに加えたポルトガルは、難敵スペインを撃破し、グループリーグ突破に成功。
さらに、イングランド、オランダも破って、初の決勝進出。
しかし、決勝では再びギリシャに敗れ、優勝を逃してしまう。ピッチ上で号泣する・ロナウドの姿が印象的だった。
クラブに戻ったロナウドだったが、マンチェスター・ユナイテッドではなかなか周囲とかみ合わず、チームメイトといざこざを起こすこともあった。
しかし、アレックス・ファーガソン監督は、辛抱強くロナウドを起用し続けた。
2005年は、クリスティアーノ・ロナウドにとって、波乱の年となった。
9月、最愛の父の死。
さらに10月、婦女暴行疑惑をかけられ、逮捕される事態に(結局不起訴処分)。
しかし、若くして訪れた苦難を乗り越えたロナウドは、一回り成長した姿をピッチで見せ始める。
[初めてのワールドカップ〜覚醒]
2006年6月。
迎えた初のワールドカップ。
イラン戦でPKながら初ゴールを決め、天国の父に捧げた。
決勝トーナメント1回戦では、オランダのハリド・ボラルーズに危険極まりないタックルを見舞われ、負傷交代を余儀なくされた。
不本意な交代劇に、ロナウドは号泣した。
ポルトガルは準決勝でフランスに敗れ、またも泣いてしまったロナウドだったが、この大会は彼にとって実りの多い大会となった。
しかし、準々決勝のイングランド戦でのマンチェスター・ユナイテッドのチームメイト、ウェイン・ルーニーの退場劇に一役買ったとして、イングランドメディアの餌食となり、過激なバッシングを受け、移籍は避けられないものと思われた。
結局、マンチェスターに留まることを決意したロナウドは、ピッチでイングランドを黙らせることに成功する。
迎えたフラムとの開幕戦。ホーム、オールドトラフォードでボールを持てば、ブーイングの嵐がロナウドを襲う。
しかし、ルーニーのクロスに合わせたロナウドは、豪快にゴールネットに叩き込み、開幕戦からゴールを挙げた。
その後、マンチェスター・ユナイテッドの快進撃の中心には、クリスティアーノ・ロナウドの姿があった。
それまで、ボールを一人でこねくり回し、チャンスを潰していた姿は無くなった。
しかも、シュートへの意識が以前より増し、ゴールを量産。
なんと、チーム得点王の活躍ぶり。
テクニックに加え、勝負強さを身につけたロナウドに対し、気が付けばブーイングは消えていた。
それどころか、世界NO.1の選手という賞賛の声が増していくこととなる。
クリスティアーノ(クリスチアーノ、C)・ロナウド
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